勝浦市の概要
勝浦市は、千葉県の南東部に位置し、都心から約75キロメートル圏内に位置しています。市域は黒潮の北上する太平洋岸に面し、海岸線は自然景観に富んでいます。市の北西部は房総丘陵に属し、海抜150〜250メートルの丘陵性山地が広く分布し、平坦地の少ない地形です。400年以上の歴史をもつ勝浦の朝市は、高山や輪島とともに、日本三大朝市のひとつに挙げられています。
水産業では、国内有数のカツオの水揚げ高を誇り、農業においては、稲作・畜産の複合経営が主体で、コシヒカリの生産振興を図っています。また、南房総国定公園の自然景観を活かした観光都市でもあり、房総リゾート地域整備構想で「勝浦タウン・ライフ・リゾート」として重点整備地区に指定されています。
勝浦のあゆみ
勝浦市では、縄文時代前期の遺跡として上長者台遺跡が発掘されています。また、古墳時代の痕跡として、弥生時代の占いに使われた動物の骨が多数出土されている、こうもり穴洞穴遺跡が発掘されています。
勝浦地区は勝浦卿と呼ばれ、『夷隅風土記』によると、天慶年間(938年〜946年)のころ、上総権守興世王が支配していたと伝えられています。
戦国時代、安房里見氏の武将・正木氏は、八幡岬の勝浦城に入り、一帯を所領していました。天正18年(1590年)、正木氏が小田原の北条氏と命運を共にして滅ぶと、徳川家康の幕臣・植村泰忠が三千石を領して勝浦城に入りました。泰忠は、入封と同時に、勝浦湾の北東岸に家臣団を中心とした町屋を営みましたが、これが現在の中心市街の都市的起源とされています。
二代泰勝の万治2年(1659年)、植村氏は、勝浦湾北方の串浜字新田内台に新たな館を築いて移り、四代忠朝の天和2年(1682年)、加封されて一万一千石の大名となりました。しかし、六代恒朝の宝暦元年(1751年)に改易となり、大岡出雲守忠光が代わって支配しますが、宝暦6年(1756年)には、武蔵岩槻に移りました。以来160余年にわたり勝浦に善政を行いました。
江戸時代には、興津地区は興津郷と呼ばれ、里見氏が要害の地に城を築きました。興津郷は、幕府の直轄領となり、妙覚寺に仙台藩取締所が置かれるなど、江戸と東北を結ぶ重要港として栄えました。植村郷と呼ばれた上野地区は、領主が度々代わり、総野地区では、農業が盛んで、主に旗本領だったといわれています。
明治22年(1889年)町村制の施行によって、勝浦村・豊浜村・清海村・上野村・総野村が発足しました。翌年、勝浦村は勝浦町になり、清海村は、大正10年(1921年)に興津町となり、勝浦町は昭和12年(1937年)に豊浜村と合併しました。昭和28年(1953年)の町村合併促進法により、昭和30年(1955年)に4ヶ町村が合併して勝浦町になりました。そして、昭和33年(1958年)に、千葉県18番目の市として勝浦市が誕生しました。
また、伝統産業でもある勝浦の朝市は、石川県の輪島・岐阜県の高山と並ぶ日本三大朝市として、約400年の伝統をもっています。
天正18年(1590年)、徳川家康の幕臣、勝浦城主の植村土佐守泰忠が、農業の振興を図るとともに、新しい漁法を伝えました。そして、農産物と漁獲物との交換のために、慶長8年(1603年)、10日を一区切りとして上町・仲町・下町と場所を移動し、朝市を開いたといわれています。当時、勝浦三町(上町、仲町、下町)では、「江戸まさり」という言葉が伝えられるようになり、産業文化の発展ぶりがうかがえます。現在では、勝浦の台所として多くの人々に親しまれています。早朝より約80軒の露店が並ぶ朝市は、観光の目玉になり、勝浦漁港に水揚げされたばかりの新鮮な魚介類のほか、地元で収穫された四季折々の野菜や果物が店頭を飾っています。
勝浦の名前の由来
勝浦市の「勝」は「潟」、「浦」は「海浜」を意味するとされています。
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勝浦市立図書館 |
| 住所: |
〒299-5235
千葉県勝浦市出水1297 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0470-73-0300 |
| 開館時間: |
9:00〜16:30 |
| 休館日: |
毎週月曜、祝日、年末年始 |
| 入館料: |
無料 |
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